今でもやっているのでしょうか?
最近、テレビで同じような光景を目にしたので、今でもやっていることだと思います。
小学校のころ、先生に指名されて、答を発表して、正解のときは、周りの人たちが、
「い~いで~す(良いです)。」
不正解のときには、
「ちが~いま~す(違います)。」
なんてことをやっていませんでしたか(やっていませんか)?
とんでもない不正解をしたときには、みんなから笑われちゃったり、バカにされちゃったりしましたよね。
テストで間違えて(悪い点をとって)、先生や親から怒られたという経験をしたこともあるのではないでしょうか。
これから書くことは、私の小学生のときの経験であり、
世代や地域、先生によって、多少の違いはあるのかもしれませんが、
おそらく似たようなことだったのではと思っています。
授業中に、先生に一人の児童が指名されて、
問題に答えるときのことです。
児童が答えを発表して、
その答えが正答のときは、他の児童たちが
「いいでーす。」
と声を合わせて言います。
発表した答えが誤答のときは、他の児童たちが
「ちがいまーす。」
と声を合わせていいます。
こんなシステムがありました。
」「
このシステムって、私には記憶がないのですが、
おそらく小学校1年生の早い時期に教え込まれたんだと
思うんですよね。
このシステムが失敗を恐れるようになる原因の一つなのではないか
と思っているんです。
「ちが~いま~す」の後って、
正解が分かっている他の児童が手を挙げるのが
とても嫌みというか、自慢げに見えますよね。
そもそも、「ちが~いま~す」って言われるのって、
とても恥ずかしいですよね。
特に、自信を持って答えたときには。
ひどいときには、先生も誤答に吹き出すことがあったりして。
あれは子ども心に、とても傷ついたと思います。
あの答えを言うときの緊張と間違えたときの
恥ずかしさを経験するくらいなら、手を挙げないぞ!
と決めてしまう子どももいるはずです。
それでも、手を挙げない児童を指名して、
答えさせる先生もいましたよね。
不正解のときに先生が、
「不正解だけど、手を挙げて、答えたのは偉かったぞ」
というようなことを言ってくれたら、
他の児童が、「ナイスチャレンジ!」などと声を掛けてくれていたら、
失敗を恐れる氣持ちがそんなに大きなものには
ならないのではないか、と思うのです。
そうすれば、本当に自分が望むことにチャレンジをして、
もっと自分らしく生きられる人が増えるのではないかと思うのです。
」「
他の児童たちが声を合わせないにしても、
先生が、
「惜しい!」とか、
「もう一回よく考えてみよう」とか、
「他の意見の人は?」とか、
という反応をしていたと思います。
ひどいときには、誤答してしまったときに、
他の児童たちが、誤答を笑うこともありました。
何を言いたいのかといいますと、
先生の反応も、他の児童たちの反応も、
正答か誤答かという結果に焦点が当たっている。
正答か誤答かという結果だけで評価されている。
ということです。
当然、指名されるたびに、
毎回正答できるワケではありません。
誤答してしまうことだってあります。
誤答してしまったときに、
流された(フォローされなかった)
笑われた(バカにされた)
責められた
という経験をしたらどうでしょう。
「経験をしたら」というよりも、
「そのように感じたら」という方が良いかもしれません。
先生や他の児童にその意図がなかったとしても、
本人が、そのように扱われたと感じてしまったら、
誤答することと、ネガティブな感情が結びついてしまいます。
そうなってしまったら、
誤答をして、イヤな気持ちになるくらいなら、
最初から答えるのを控える、
という選択をするようになってしまいます。
このことの積み重ねで、
誤答や失敗を避けるために、
最初からチャレンジをしない、
というやり方を身に付けているのだと思うのです。
赤ちゃんのころは、失敗しても、失敗しても、
そんなことには構わず、うまくいくまでチャレンジしていたはずです。
一度のチャレンジで、立てるようになった赤ちゃんはいないはずです。
何度も、チャレンジしては、尻もちをつき、
チャレンジしては、尻もちをつき、
を繰り返していたはずです。
」「
転ぶのを恐れて、立ち上がることにチャレンジしない
赤ちゃんはいません。
転ぶのを恐れて、歩くことにチャレンジしない
赤ちゃんっているでしょうか?
転ぶのを恐れて、自転車に乗ることにチャレンジしない
子どもっているでしょうか?
(あ、ちなみに私の嫁は、対向車が恐くて
街中では自転車に乗れません)
」「
そして、ついには立つことができるようになります。
一度立つことができた後でも、尻もちをついてしまうこともあります。
それでも、尻もちをつくのがイヤで、
チャレンジを諦めてしまう赤ちゃんはいません。
さらには、繰り返し尻もちをついている赤ちゃんを見ていて、
「もう諦めたらどうだ。」という親もいません。
「がんばれ、がんばれ。」と応援するはずです。
このとき、立てたか、尻もちをついたか
という結果で評価はしていないはずです。
立とうとする、チャレンジを評価し、
立とうとする、チャレンジを後押し・応援しているはずです。
そうであれば、誤答や失敗を恐れずにチャレンジできるのです。
一方、1人でゲームをしているとき。
自分以外は自分のゲームプレイを見ていません。
こういうときは、何度失敗しても、やり直すということを淡々と繰り返していると思います。
悔しいとか、惜しかったとか、感情は動かすかもしれませんが、失敗を恐れたり、失敗したことを恥ずかしいと感じたりはしません。
この違いはなんでしょう?
人の目があるかないかの違いです。
人の目がなければ、あなたは失敗を恐れず、失敗したことを恥ずかしいと感じずにチャレンジできるのです。
そうです。
他の人は、自分自身のことに忙しくて、あなたのことなど気にしていません。
それは、あなたが他の人のことを気にしていないのと同じです。
ということは、ありもしない他人の目を気にして、失敗を恐れ、失敗したことを恥ずかしいと思い、成し遂げたいことにチャレンジしないでいるのです。
なんというもったいないことをしているのでしょうか。
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