心のフィルタを開閉すると気になるものも気にならない

【あるハンバーガーショップにて】

先日(まだ桜の咲くころのこと)、ある作業をするために、
集中して作業ができる場所を探しに出かけました。

普段は、自宅の書斎で作業をしているのですが、
ここ数日、なんとなく自宅では集中できなかったのです。

自宅は、仕事をする場所というだけでなく、
リラックスする場所でもあるし、本やTVなど誘惑があって
氣が散ってしまうんですよね。

集中して作業をしようと思うと、
シアトル系のカフェが思い浮かぶのですが、
あいにく近所にはそのようなカフェがないのです。

某ハンバーガーショップならば、
最近はパソコン用の席を用意しているというのを
思い出したので、そこに行くことにしました。

手頃な価格でコーヒーが飲めるというのもあったので…。

お店に入って席を探すと、カウンターの席には、
1席に1つずつパソコン用の
コンセントがありました。

カウンターの席に座って、作業を始めました。
お店の近所に私立の小学校があるんです。

そのときは、入学直後の1年生とそのお母さんが3組、
テーブル席を陣取っていました。

なりたての1年生なので、まだまだ走り回って遊んでいます。

お母さん方はお話に夢中でした。

その脇のカウンター席で作業をしている私。

あなたもこの状況をイメージしてみてください。

私にはまだ子どもがいませんので、
子どもの大きな声には慣れていません。

お母さん方はいつものことなので、
少々子どもたちが騒いでいても氣にならないのだと思います。

慣れているんでしょうね。

しかも、お母さん同士も子どもの騒ぎ声に負けないくらいの
声で話しをしています。

私は考えました。

もし、私の氣分が少しいらだち氣味だったら、
どんな反応をするだろう?

きっと「うるさいなぁ。もっと静かにしろよ(させろよ)」と、
さらにいらだちを増してしまったのではないでしょうか?

では、もし、私の氣分がウキウキしていたら、
どんな反応をするだろう?

きっと「ピカピカの1年生、元氣だねっ!」と、
さらに楽しい氣持ちになったのではないでしょうか?

さて、この反応の違いの原因はなんでしょうか?
自分の身の回りで起きている出来事(子どもたちが騒いでいる)
は同じです。

違いは、そのときの自分自身の氣分です。

自分自身の氣分によって、
同じ出来事に対して違う反応をしてしまうんですね。

つまり、出来事の意味
(「うるさい」なのか、「元氣だね」なのか)を
受け取るときに、自分自身の氣分が自分のフィルタに影響する
ということなんですね。

その後、少し時間が経って、私は作業に集中し始めました。

このとき、私はどのような反応(出来事への意味付け)
をしていたと思いますか?

ネガティブな反応でもなく、ポジティブな反応でもない、
第三の反応 = ニュートラルな反応をしていたのでしょうか?

いえ、違います。

作業に集中し始めたときには、
私は「氣にならない」状態になったのです。

つまり、周りの出来事に対して
何も反応をしていなかったのです。

周りで起きている出来事に対して、
良い意味でもない、悪い意味でもない、
ニュートラルな意味を受け取っていた。

というのとも違って、
どんな意味も受け取っていなかったのです。

つまり、その出来事に対して、
自分のフィルタを完全に閉じていたのです。

私はそういう状態になっていたのです。

自分のフィルタを「作業」に向けて全開にしていたので、
周りで起きている「出来事」に対しては
完全に閉じていたのです。

自分が何に集中しているかによって、
自分のフィルタを開閉することもできるんです。

あなたは、フィルタを何に向けて全開にしますか?
何に対してフィルタを閉じますか?

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